この付城は、三木城の兵糧攻めに際して築かれた30余りの付城の一つで、天保12年(1841)絵図「三木城地図」に描かれていましたが、平成11年に所在が確認されるまで、その存在は明らかではありませんでした。付城は、土塁で囲まれた主郭と東郭、そして尾根先端の西郭から構成されており、東郭の東には広い丘陵台地が続いています。主郭には、南西隅に櫓台を築き、主郭と東郭とを区切る土塁の中央部と、東郭を囲む土塁の南東隅に虎口を設け、それぞれ郭の出入り口としています。また、確認調査によって、主郭の東側土塁と東郭の東側土塁の外側で、土塁裾に沿って堀跡が検出されています。
西郭
主郭の西側に設けられた郭で、尾根先端のわずかな場所を削り、平坦面を造りだしています。この郭では、土塁を築いていません。
主郭
城の主要な場所で、主な武将達が居たところ。この主郭の広さは、約1100uを測りますが、建物の存在は不明です。
三木合戦とは
戦国時代の終わり頃、天下統一を目指した織田信長は、中国地方の戦国大名毛利氏を攻めるため、羽柴(豊臣)秀吉を総大将とする軍勢を播磨に侵攻させました。東播磨を領有する三木城主別所長治は、織田方に味方していましたが、毛利氏に寝返ったことから天正6(1578)年6月(3月、4月など諸説あり)織田方との間で三木合戦が起こりました。三木合戦は、別名「三木の干殺し」と呼ばれ、天象8(1580)年1月までの約1年8か月に及んだ兵糧攻めで、長治は、共に籠城し飢えに苦しむ人々の命を救うため、自害し開城しました。
三木城攻め付城群
羽柴(豊臣)秀吉は、兵糧攻めによる三木城攻略のため、三木方の兵糧搬入と援軍を阻止する目的で、三木城を包囲する城を築きました。
城攻めの祭に築かれたこのような城を、付城または陣城と呼んでいます。
軍記や地誌などの文献によれば、三木城攻めには平井山の本陣をはじめ、30余りの付城が築かれたとされています。
これほど多くの付城を築いた合戦はあまり例がなく、また今もその半数以上が現存しており、戦国時代における城攻めの実態を解明する貴重な史料となっています。
(a)シクノ谷峯構付城 (b)高木大塚付城 (c)法界寺山ノ上付城 (d)小林八幡神社付城
(e)八幡谷ノ上明石道付城 (f)羽場山上付城 (g)三谷(箕谷)ノ上付城
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